すきなものだけ。

すきなことを呟きます。

ただいま。


わたしには、どんなときでも「愛海、おかえり」と迎えてくれる人たちと場所がある。

 

 

「伊勢は、人々の心のふるさとだから」と先生は言う。わたしにとって伊勢は、生まれのふるさとでもあるから、
そう言ってもらうことで、
伊勢という土地がいつもわたしを包んでくれているような、どこにいても見守ってくれているような、そんな気がしている。

 

名古屋に住んでいても、
地球の反対側にいても、

 

伊勢は、わたしにいつも言ってくれる。
おかえり。

 

帰国して先生たちに会うのを怖がっていたわたし。それはもう、船内で既に悩み始めていたこと。

 

「あそこはいらない」

 

そんな結論すら自分の中に見え始めたこと。
いらない、と主張する人たちも、世の中にはいる。その中で、わたしがなにを口にするのかどう生きるのか、わからなくなってしまったこと。
愛海が変わってしまったと嘆かれてしまうんじゃないかという不安。
「おかえり」「愛海はいい子」そう言ってもらえなくなるんじゃないかという不安。

 

今日、何食わぬ顔で道場に入っていったわたしを迎えてくれた、
変わらない、いやむしろ、いつもより大きい声での「おかえり」を聞いて、

 

ものすっごーーーーーーーーーーーーーく
”帰って来てよかった”
伊勢に、そして、修養団に。

 

簡単にわたしの現在の気持ちを伝えたら、さらっと言われてしまった言葉は、
「魂が、喜ぶほうを選んだらいいよ」

 

愛海が、こう生きたいと思うほうを選んだらいいよ。
右も左も、本当ならばないけれど、
喜んで生きれるほうを愛海が選んだらそれでいいよ。
幸せに生きるための条件は、ひとつだから。
喜ぶこと。それだけが条件だから。
だから、今の悩みも喜んで受け止めたらいいよ。
そんな難しい顔をしないで。”

 

 

魂とか御魂とかお臍とか、
そういう言葉はわたし得意じゃないけれど、
喜ぶことは得意です。

 

ああ、喜んだらよかったのかあ、と納得。
苦しいことを、喜べたらよかったのか。

 

船のわたしはなにも喜ばなかった。
周りと比べて純粋に学べない自分を責めたり、知らないという現実に悩んだり、教えてもらったことを信じ抜けない自分が嫌やった、生まれた場所が違ったらとすら思った、学校が違ったら、親が違ったら、今までの生き方が違ったら、
違ったらわたしはもっとみんなみたいに生きれたのに。
醜い醜いコンプレックスのかたまりになって、
ふるさとが消えてしまうことをただ怖がってた。
ふるさとに見捨てられるんじゃないかと怖がってた。

 

あれもそれも、悩めることをぜーんぶ喜べればよかったのに!!!!

 

自分が生きたいところで生きていく。
喜ぶところで生きていく。
喜ぶほうを選ぶ。

ああ、なんて簡単な話や。

 

意味のない規律は嫌い。
でも、意味のある規律はとても、好き。
責任を持って生きることが、好き。
人に影響されない曲がらない生き方が、好き。
逃げない自分になりたい。
逃げない自分になれたら、自分のこと大好きになれるから。

 

 

ああ、でもまだまだ
「おかえり」って甘やかされたい
わたしです。
「ただいま」とだらけたい
わたしです。

 

 

伊勢が好き。伊勢にいる人たちが好き。
ああ、でも、好きすぎるから、そろそろ離れなきゃなあ…